島本和彦の
#バスケットボールジャーニー
Vol.1
多分、
全てはここから始まったのかな?
島本和彦
(バスケットボール・ジャーナリスト)
ボクがNBAの存在を知ったのは学生時代。異なったスポーツをやってはいたもののバスケットボールはやってはいなかったので、バスケ部の友人からその存在を知らされた。
東京オリンピック1964(高校3年生だった)で圧倒的な強さを日本中に知らしめたアメリカだったが、友人の話によると「五輪のUSAチームはすべて学生で、卒業をするとすべてプロに行くんだ」ということを教えてくれた。
それを聞いて思ったのは「なんだ、なんなんだ。もっと凄い選手がいるのか? チームがあるのか?」ということ。そして「いつかはそんな世界最高のチーム、選手を見てみたいものだ」とその時感じてしまったのだ。
その後、縁あって月刊バスケットボールの創刊(1973年9月25日)に携わることになって、世界のバスケットボール・ニュースの企画“WORLD HOOP SOUNDS”というページの担当をし、さらにNBAを深く知っていくことになった。
そして、創刊から5年後の1978年の2月、NBAのことをもっと知っておかないと大変なことになるという予感がしたので、会社は取材費を出してはくれなかったけれど自費でロサンジェルスとポートランドでの取材を敢行した。LAのフォーラムではレイカーズatナゲッツ。ポートランドのメモリアルコロシアムでは76ERS atトレイルブレイザーズ。
このカードにしたのはちゃんと理由がある。
レイカーズでは目の前で、動いているカリーム・アブドゥル=ジャバー、ナゲッツではデイヴィッド・トンプソンを見たかった。カリームは過去5年間NBAで最も支配的なプレイヤーだったし、トンプソンはモスクワ・ユニバーシアードの取材時にそのすごいジャンプ力を目の当たりにしていたし、その後日本でも親善試合をしていた。ポートランドのゲームは前年のファイナルの再現ゲーム。DR.Jとビル・ウォルトンの対戦だったから。
この時の取材でNBAの取材システムを大体把握できたように思う。プレスパスの申請の仕方?、アリーナのどこで入手するのか?、アリーナに入ってどのような行動をするのか?、プレスルームでは何が手に入るのか?、試合後のロッカールームにはどのようにして入るのか?。おぼろげながら分かった。すべて初めてのことで、今考えると恥ずかしくて穴があったら入りたくなるとは、あの時のことだ。もちろん、取材しているのはアメリカ人ばかり、東洋人、日本人は僕一人だった。
この1970年代の終わりころの状況を思い出してみると、FAXもなく、もちろんインターネットもEメールもない。国際電話はものすごく高いので使うことなど考えられなかった(言葉の問題もあった)。だからチームへの連絡も手紙で巣材申請をする。でも、1度も取材に来たことのない国、名前を聞いたことも無い雑誌からの申請など完全に無視されていた。返事があるはずもなかった。
手紙が着いているかどうかも分からない。だから、だれと、どう交渉していいかも分らなかったし、とりあえず試合会場に入るため、一番安いチケットをダフ屋から買って入った。このチケットもダフ屋との交渉は、当時USC(南カリフォルニア大学)に留学中の北原憲彦君に頼んでやって貰った。FORUMの最上階のすぐ後ろは壁だった。コートがやけに遠くにあり、小さかったのを覚えている。
なんだかNHKの人気番組だった“プロジェクトX”みたいになっちまったなぁ。(続く)